黒井城(日本続100名城第163番)
さてさて。
今度は丹波の黒井城(別名保月城)です。
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」でもおなじみの明智光秀が丹波攻略で
2度にわたり攻撃を仕掛けた、難攻不落の山城です。
(その時の城主は赤井直正)
たぶん、ドラマの後半で出てくると思います。
混むんだろうなぁ。。。去年行っといてよかった。
要するに山。です。(これは黒井城中腹から撮影したもの)
ちょうどここが中間地点。最初、本丸がここかと思って、愕然としました。
本丸近くの東曲輪跡。石垣もあります。
さらに接近。
東曲輪を抜けると二の丸跡がありました。
二の丸・本丸は崖上に作られており、二の丸と本丸の間には、堀割が見られます。
おそらく、本丸側の石垣や崖側に潜ませた兵で十字攻撃が可能だったと思います。
本丸側の石垣です。
高さはありませんが、石自体はこの山のものではないと思うので、
どこかから運んできたのでしょう。
運が良ければ、雲海が見られますが、他の山にかかっていました。
この山の主たる岩は、丹波山地によくみられるチャート(放散虫の死骸が加圧され
できたもの)です。石垣の石の材質とは違うと思います。
また、チャートは非常に硬いので、その加工の難易度はかなり高いものと思います。
これが、朝露に濡れて、よく滑ること。。。
松の葉に霜が降りる天候でした。
麓には、黒井城主の居館と言われる、興禅寺があります。
(水堀もよく残っています。)
その娘である春日局の生誕の地と言われています。
黒井駅前のお福ちゃん像。
運が良ければ冬場に雲海がみれるかも。ですが、防寒対策と滑り止めはしっかりして
行きましょう!
(雨上がりとかは、きっと、もっともっと滑る。はず。)
姫路城(日本百名城第59番)
むむ。。
またまた久しぶりのお城投稿になりました。
これ、去年の2月の頭に行った時のだよなぁ。。。
仕事やらプライベートやらでなんだかんだあったので、ドタバタしていました。
また、ちょっとずつ投稿していかねば!ですね。
さて、言わずと知れた「姫路城」
国宝であり世界遺産でもあります。
だいぶん、塗りなおした白漆喰が落ち着いてきましたね。
正直、直したての頃は目がチカチカするなぁ。という感じでした。
石垣の説明がありました。
これらは豊臣期の石垣です。
姫路城は各藩主家の丸瓦が多数あります。
榊原氏の源氏車
酒井家の酢漿草
本多氏の立葵
酢漿草と揚羽蝶が並んでいます。
よく、時代劇のロケ(特に暴れん坊将軍)で使われている、通称将軍坂
このあたりにくると、石垣もち密になってきます。
石落としと狭間
大天守内部の廊下。
薄暗さがいいですね。
大天守最上階には刑部神社(おさかべじんじゃ)が鎮座しています。
大天守から、各曲輪の渦郭式配置がわかります。
行ったときは、小天守と渡櫓が特別公開されていました。
迫力ある薄暗さです。
明石城(日本百名城第58番)
ようやく2月の旅行のお話へ突入です。
こちらは、大阪城からの続きではなく、新しい行程です。
今回は、明石→姫路→福知山→丹波篠山を巡る旅でした。
まずは明石城から。
本丸には、天守はもともとなく、現存の三層櫓が2基あります。
こちらは大手から入って正面右側の巽櫓(たつみ)
こちらは左側の坤櫓(ひつじさる)
よく見ると、櫓の向いている方向が違うのがわかります。
これは、山陽道の交通と、瀬戸内海の往来を同時に監視するためと言われています。
ちょうど今年で400年です。
家紋が歴代藩主家を示すように、
小笠原氏→戸田松平氏→大久保氏→藤井松平氏→本多氏→越前松平氏
と譜代・親藩の重鎮が封ぜられています。
畿内への最終防衛ラインとして重要視されていたことがわかります。
桝形と門の石垣です。
本丸へ通じる高石垣です。
巽櫓を裏から。軒瓦には越前松平家の紋が見られます。
ここには小笠原氏の三階菱がありました。
坤櫓を裏から
下から見上げると結構高いですね。
季節がら、梅の時期でした。
スタンプ台には明石名物のタコがくっついています。
大阪城(日本百名城第54番)
というわけで、2019年1月の旅、最後の登城は大阪城です。
(2月にも他の所へ行ってるからネタがたまってます。。)
現在は、この天守・石垣・縄張は、大坂の陣後に徳川氏が建て変えた
(というか埋め立ててその上に築きなおした。)ということは
知られていますが、それが発覚したのは…。
昭和30年代に入ってからだったそうです。
それまでは、太閤さんが建てたお城!(のまま)って思われていたようです。
発見がされたとき、「今さら、どうしよ。。」って思ったとか。
豊臣時代の石垣などは、非公開ですが、この下4~5mくらいのところに
遺構が残っています。
多門櫓から。
堀と遠くに臨む大手門
桝形とこれでもか!の巨石群です。
空堀になっています。
ひょっこり……。
太閤桐の金瓦が特徴的です。
大阪城の住所です。わかりやすい。
大手側からそのまま天守を抜けると、山里丸のあったエリアへ。
こちらには豊臣秀頼・淀殿自刃の地。の碑がひっそりとたたずんでいます。
あまり観光客も来ていませんでしたが、静かでいいのかもしれませんね。
雄大な堀と石垣ですね。
場内に通じる橋を落としてしまえば、なかなか攻められないですね。
桜門桝形と蛸石。1つで推定130トンだとか。
まぁ。。大変ですな。
岸和田城(続日本100名城第161番)と泉大津(眞鍋城)
道すがら、早速、昔の縄張りと思われる道を見つけました。
岸和田城は1400年代初頭に和泉半国守護となった細川氏により整備が進められ、
江戸時代には譜代の岡部氏が5万石で入封しました。
岸和田は、大坂と和歌山のちょうど中間地点にあり、一説には、
紀州藩の監視役的な立場を担った。とも言われています。
(足の裏についた飯粒。の話が有名ですね。)
関西空港方面を臨みます。
こうしてみると、5万石の城にしては立派な堀と石垣がうかがえます。
瓦は、岡部氏の左三つ巴です。
ちなみに岸和田はコシノ三姉妹の故郷です。(こちらは復元されたご実家)
コシノ… ジュンコ・ミチコ・ヒロコ でしたっけ???
最寄りの蛸地蔵駅には岸和田合戦のステンドグラスがあります。
各駅停車しかとまりません。
この後、泉大津へ…。
ゆるキャラ?? 羊のおずみんです。
泉大津市は羊毛加工品。特に毛布のシェアが全国90%あるそうです。
ま、なんで泉大津に立ち寄ったかというと。。
フリーアナウンサーの川田裕美さんの故郷だから(あと、移動の道すがら
ってのもあるけどね!)
川田さん、結構好きなんですよね。フリーでなかった頃は知らなかったけど、
気取らず、明朗なところが見ている方の気持ちを楽にする気がします。
市内にある、南北朝期にあった、眞鍋城跡。今は江戸時代にこちらを治めていた、
伯太(はかた)藩主渡辺氏の菩提寺となっています。
大津御堂という別名もあるそうです。
(江戸時代は陣屋だったので、すでに廃城となっています。)
江戸時代には水運を利用し、近隣で栽培された綿花を大坂に運んでいたそうです。
その名残の旧家でしょうか?
和歌山城(日本百名城第62番)
ホテルから撮った夜の和歌山城です。
そののち、徳川御三家の一つ、紀州徳川家(徳川頼宣)が入り、大改修と拡張が
図られました。
石垣が時代時代によって違うのも特徴的です。
こちらは築城初期の野面積み
こちらは浅野期のものと思われます。
キレイにそろっている、徳川期の石垣です。
石垣の石を拡大してみました。玄武岩質でしょうか?
柱状節理が走っているのがわかります。
大小天守です。現存天守ではありませんが、天守の建造年代としては
もっとも新しい1850年建造でした。
(武家諸法度で天守の建造は禁止されていましたが、紀州徳川家の家格を鑑み
特別に許可されたいきさつがあります。)
江戸時代を通じて、紀州徳川家から2人が直接徳川宗家を相続(将軍に就任)
していることもあるのでしょうね。
名古屋城よりは小ぶりですが、ちゃんと葵紋のある鯱が乗っています。
二の丸と西の丸をつなぐ御橋廊下です。
西の丸庭園の「三つ鍬形」紋の軒瓦。
この「三つ鍬形」は、ある時徳川家康が、信長・秀吉・家康の三英傑が、
兜をかぶったまま鼎談している。という夢をみて、それを替紋とするよう、
頼宣に授けた。といういわれがあるとか。
これは別の場所ですが、こちらにもありました。
重要文化財の岡口門(現存)です。
外堀は埋め立てられ、市街地化しています。内堀がその威容を物語っています。
伊勢神宮
お城巡り番外編で伊勢神宮です。
名古屋→津→松阪→伊勢という順番で、JRだったり、近鉄だったり。
まずは、豊受大神宮(外宮)から
伊勢神宮参拝のルールとして、まず外宮からお詣りし、その後内宮へお詣りする。
らしいです。
こちらは豊受大御神、衣食住を司る神様をお祀りしています。
内部のはっきりしたところまでは撮影できませんので、ざっくりとした雰囲気を。。
続いては皇大神宮(内宮)へ
ご祭神はご存じ天照大御神です。
正式には
天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
とお呼びするようです。
内宮の門前にあるこちら。
かつては、旧国道1号線でした。東京を起点に伊勢神宮が終点の国道だったのですね。
五十鈴川が流れています。
かつては、ここで身を清め(沐浴)してから参拝していましたが、
今はこちらで手を清めましょう。
撮影はここまで!
隣には式年遷宮にそなえた同じ広さの空間があります。
式年遷宮後はこちらが次に備えた空間となります。
(要するにかわりばんこ。ですね。)
最後に定番のおかげ横丁へ。
おみやげ物は参拝の帰りに買いましょう。
松阪城(日本百名城第48番)
津城(続日本100名城第152番)
「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」で有名な津にあるお城です。
あれ、ご存じない…?
後半部分は有名ですけどね。
津は伊勢参拝の玄関口の宿場町として、江戸時代は大いに繁栄したそうです。
復元された丑寅櫓です。
お城そのものは、当時の曲輪が市役所等市街地化していますので、
こじんまりとしています。
まぁ、本来は藤堂藩32万石だったわけなので、相当大きかったものと思います。
石垣はなかなかの高さがありますね。
この切れ込みは何だろう?
津城公園内には、藩祖藤堂高虎の銅像と、藤堂高虎が祭神にもなっている高山神社
があります。
高山神社の手水には藤堂氏の蔦紋が描かれていました。
内堀ですが、かなり立派です。
名古屋城(日本百名城第44番)
ようやっと、今年の訪城記に入ります。
とはいえ、まだ1月中旬のお話。
この時は、愛知・三重・和歌山・大阪あたりをめぐってきました。
まず、第1弾は名古屋城です。
ちょっと修復中ですが…。
さて、名古屋城にはもちろん何度も来たことがありますが、
今回は重要文化財の西北隅櫓と西南隅櫓の特別公開にあわせての来訪です。
まずは西北隅櫓
こじんまりとした風に見えますが、立派な三層櫓です
続いて西南隅櫓
内側からだとこんな感じですが
外側からだと見覚えのある感じになります。
ここは、かつて離宮として宮内省管轄だったので、鬼瓦に菊紋が施されています。
本丸御殿は見る時間がなかったので、天守と並んだ感じを。
石垣は立派ですが、太平洋戦争の空襲による熱劣化が見られるところがあります。
.櫓門の石垣はさすがに立派です。
最近の研究で、名古屋城は「天下普請」で各大名に工区を割り振っていたが、
おまけの金のしゃちほこ(おなじみ)
鑁阿寺(足利氏宅跡)(日本百名城第15番)・足利学校
本題の城巡りブログが…。
こちらも、昨年末に行った鑁阿寺です。足利氏宅跡として、
日本百名城に登録されています。
国宝に指定されている本堂。
足利氏の紋、丸に二つ引き両が施されています
こちらは重要文化財の経堂です。
本堂の屋根。瓦にも足利氏の紋が施されています。
中世武士の居館らしく、堀割と土塁がめぐらせてあります。
続いて足利学校へ。日本最古の学校として中世以降の教養層をリードしてきました。
印象的だったのはこちらの「宥座之器」
これは、この器に水を入れていくと、ちょうど釣り合う水量があるけれど、
それ以上水を入れると、入れ過ぎてひっくり返ってしまいます。
すなわち、人間誰しも適切な器があるのだよ。ということを示唆しています。
珍しい「學」の字の瓦です。
足利学校にも堀割と土塁がありました。