カメラ買い換えました。
6月にEOS6DMark2でフルサイズ一眼デビューしましたが…。
オールドレンズで撮影をしていると…。
2.5mから無限遠でミラー干渉が発生することが…。
うーん。どうしようかな。。。
そうこう考えているうちに…。
マップカメラで、中古下取り12%アップキャンペーン!
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うーむ。買い換えちゃえ!
というわけで、フルサイズミラーレスのEOSRに買い換えました。
じゃん!(携帯で撮ったから何かおかしい。)
レンズは
「RF24-105mm F4 L IS USM」
このカメラではいわゆる標準レンズにしました。(Lレンズなのに…。)
マウントアダプタも買いましたので、今までのEFレンズも使えます。
12月からはこれで色々と撮影するぞ!
五稜郭(日本百名城第2番)
さて、東北・函館旅行最終日
(それ以前には何回か来たことがあります。)
五稜郭…陵堡式城郭。いわゆる、お城としては最後の建築となります。
立体模型や図面で形をしっかり把握しておきましょう。
(中にはいるとわかりにくくなるから。)
石垣は城郭建築最晩年のものともあってしっかりと組まれています。
内堀もしっかりと残っています。
外堀を見ると、虹がかかっていました。
内部には箱館奉行所が復元されています。
定番の五稜郭タワーから見てみます。
レンズの広角のギリギリ一杯…。
半月堡(下の馬出部分)をアップで
タワーからも薄く虹が出ていました。
おまけ。
前日の夜の函館山の夜景を。
海峡や湾の様子がよくわかりました。
五稜郭タワーも見えました。
これで、10月の東北函館ツアーは終了です。
まだまだ、行ってきたネタが残っていますので、
整理しながら書いていきたいと思います。
志苔館(続日本100名城第101番)
すっかり、ブログをさぼっていました。。
しかも、10月の旅行記の途中でした。
では、続きです。10月28日に弘前から浪岡を経由して、函館に入りました。
までは、前回のくだり。
函館では、まず最初に続日本100名城に指定されている志苔館(しのりたて)へ
向かいます。
志苔館… 山城 アイヌとの境界に置かれた倭人の中世城郭(要塞)と言えます。
函館駅からバスで30分くらいのところにあります。
入り口にこのような看板が。
管理事務所などはなく、無人です。
比較的高い土塁がわかります。
土塁と土塁の間には空堀があります。
函館湾もよく見えました。
土塁の上には建物跡と、井戸の跡がありました。
スタンプはこんな感じです。
敷地内のあずまやにありますが、なんせ無人でしたので…。
翌日の最終日は、五稜郭へと向かいます。
浪岡城(続日本100名城第103番)
10月28日に弘前から浪岡へ向かいました。
奥羽本線で30分くらい。弘前と青森のちょうど中間くらいの位置にあります。
浪岡城(浪岡御所)
平城 築城時期は15世紀中ごろと推定される。(応仁期ごろか?)
南朝方の有力武将であった北畠氏の支族、浪岡北畠氏が築き、
1578年に大浦(津軽)為信に滅ぼされるまで北畠氏の居城でした。
典型的な中世城郭(居館)様式を残しています。
案内図(縄張りはこちら)
北館は家臣団の居所があったエリアです。
中央に井戸があり、周辺を屋敷・長屋が囲っています。
各館の間には内堀があり、館の土塁間を隔てています。
内館は城主の居館があった場所と言われています。
内館を隔てる堀は他よりも深めです。
外から内館を見るとこんもりしているのがわかります。
内館の中にある記念碑
「北畠古城跡碑」と書いてあります。
館の外側に流れる浪岡川が外堀の役目を果たしていました。
ちょうど紅葉が始まりかかったころ合いでした。
浪岡駅の中にある「あぴねす」で無料自転車が借りられます。
(4月から10月まで)
とても親切にしていただきました。
津軽の方々は、気さくで親切な方が多かった印象です。
スタンプはこちらです。
この後、青森を経由して、函館へ向かいます。
弘前城(日本百名城第4番・現存天守・重要文化財)
お久しぶりの更新ですが、10月の東北旅行の続きです。
秋田から弘前に行きました。ちょうど日が傾きかけた頃でしたので、
ちょうどいい時間帯だったかもしれません。
現存十二天守の1つとして名高い天守ですが、1811年に再建されたものです。
(とはいえ、200年以上経っています。)
10月27日に行きましたが、ちょうど紅葉しかかっている感じでした。
こちらは外堀です。
三の丸東門から中へ。門、堀割、石垣、櫓などほぼ江戸時代の姿を残しています。
こちらも重要文化財の二の丸南門
石垣が苔むしていいあんばいです。
天守は三層三階のそれ相応な大きさではありますが、重厚感がある気がします。
雪の重みに耐えるためでしょうか?
瓦の家紋は津軽牡丹。
わかりにくいので、こちら。
晴れていれば、岩木山が見えるはずでした…。
木によって紅葉のあんばいもちょっとずつ違いました。
久保田城(日本百名城第9番)
そんなこんなで、10月27日から29日にかけて、雪に閉ざされる前の東北城巡りツアーに
行ってこよう。と思い立ち。。。
今回は日本海側から、函館五稜郭まで5城を制覇する旅になりました。
まず最初は、久保田城(秋田市)です。
秋田県には行ったことありますが、秋田市は初めて降り立ちました。
天守代わりの御隅櫓
ちなみにですが、秋田城は奈良時代に大和朝廷の最前線基地かつ出羽国府が
置かれていたところで、久保田城とは明確に異なります。
久保田城:平山城 関ヶ原合戦の後、常陸から移封された佐竹氏が明治維新まで
統治していました。
少し紅葉が始まってきた雰囲気。
久保田城は「石垣のない城」としても知られています。
一番外側の堤は、石垣の上に土塁を盛る東国(関東)的な築城法をとられています。
本丸表門
色づき始めたもみじとともに。
門の装飾に佐竹氏の家紋「佐竹扇(五本骨扇に月丸)」がありました。
この家紋は、源頼朝の奥州合戦に従軍した際に、頼朝の旗印と同じ白旗を掲げて
いたところ(同じ源氏ではあるので)「紛らわしい。」との理由で、旗の上につけた
扇をモチーフにしているそうです。
本丸の中にあった佐竹史料館で展示品の甲冑を。
帰りは反対側から外堀を。
ハスの撤去作業をしていましたが、寒そうです。
スタンプはこちら。
川越城(日本百名城第19番)
室町・戦国期には関東の交通の要衝であるが故に、古河公方、関東管領、北条氏などの
激戦地となり、江戸期以降は、その距離的な近さから、老中の城とよばれ、
有名どころでは、松平信綱(知恵伊豆)、柳沢吉保などが川越藩主でした。
とはいえ、江戸期の建物・堀などはほとんど残っていません。
江戸期の縄張りはこんな感じだったそうです(川越市役所にあります)
本丸御殿が現存しています。(玄関と家老詰所)
家老詰所ではこんな感じで職務に励んでいたのでしょうか?
その他の遺構らしい遺構といえば…。
中ノ門堀跡
富士見櫓跡
でしょうか。
通りゃんせ発祥の地と言われている三芳野神社も当時の郭内にあります。
蔵造りの街並みと時の鐘もあわせて。
川越城の百名城スタンプはこちらです。
コメントを頂きましたので(2)
コメントを頂きましたので✨
(ここからは完全な私信です。)
お久しぶりでしたね✨
コメント頂けて喜んでいます。
お元気そうで何よりでした。
私はあまり変わりなく過ごしています。
ま、この年齢ですから、そんなに変化があっても困りますが…。
変わったことと言えば、カメラを本格的に始めたことでしょうか。
そちらで、フォトジェニックな場所などがあれば、ぜひ色々教えてください✨
学校に行かれていたのですね。
色々な学びの機会があったことでしょう。
これから少し落ち着いてくるのでしょうか?
このブログでは旅行記みたいで大したことは
書いていませんが、またコメントを頂けると嬉しいです。
小田原城(日本百名城 第23番)
久しぶりの百名城シリーズです。
この間にちょこちょこあちこち行っていて、ネタが少し溜まって来たので、
なるべく頑張って書いていきます。(記録の意味合いもありますけどね。)
実際には、9月18日に行ってきました。少し残暑が残っていたかな?
小田原城 平山城 後北条氏の頃の小田原城は、現在の小田原市街地を全て
包含するほどの惣構を誇りましたが、江戸時代に規模が縮小され、
大久保氏(途中改易)→稲葉氏→大久保氏(復帰)と変遷し、小田原藩11万3千石
となりました。また、箱根に通ずる東海道の重要な地として、後世大久保氏からは
老中を多数輩出しています。
行きは新宿からロマンスカーで。最新型のようです。
小田原までノンストップで70分でした。
小田原駅から徒歩10分くらいで見えてきます。(道に迷いました。)
隅櫓と馬出門です。その奥側が馬屋曲輪になります。
そこを抜けると、銅(あかがね)門が見えてきます。
その名の通り、銅張りがされている門です。
本丸に続く常盤木門。重厚な造りになっています。
現在は内部が別の史料館として開放されています。
本丸とその石垣です。しっかりとしたハギで構成されています。
答えは、天守閣(本丸)は、将軍上洛等の時の宿泊所としての機能が主で、
小田原藩主は二の丸御殿を生活の場としていたようです。
戦国期の城主北条氏の北条鱗と江戸期の城主大久保氏の大久保藤紋。
こちらは二の丸。広々としています。
小田原駅に向かって帰るときに少し足を伸ばすと、北条氏政・氏照兄弟のお墓が
あります。
この場所で、小田原攻めで降伏した際に切腹したと伝えられています。
お時間があればぜひ。
嫌いな言葉
半月ぶりくらいの投稿になっちゃいました。
でもって、こんなシニカルな内容ですが、どうかご容赦ください。
自分が感じたままのことですので…。
今日は、最近よく耳にするけど、違和感が強かったり、もっと言えば嫌いな
言葉です。代表的なものを2つほど。
(1)「神〇〇」というもの
神対応とかいいますけど…。
それってなんですか??
神様に対応してもらったことあるんだろうか?
人間の対応だから、「優しい」とか「素敵な」とか形容詞で
いいんじゃないのかなぁ。
(2)「絆」(きずな)
厳密にいうと、絆と言う言葉は好きです。
でも、なんだか安売りされている気がします。
そんなに簡単に絆という言葉がつかえるシチュエーションって
ない気がするのですよねぇ。
特に商業的には皆無のはず。です。
(3)「エモる」
意味が分からん。というか、なんでも略せばいいってものもないでしょ。
感動的な場面に遭遇したら、自分の言葉で表現することを考えないと、
脳みそ退化しますよ。
今日はこんなところかな。
「新九郎奔る!」
今日はマンガ「新九郎奔る!」のお話です。
帯にもある通り、戦国大名の嚆矢としても有名な、北条早雲の物語です。
まだ第1巻で少年時代、伊勢新九郎の時代(元服後、盛時と名乗る)かつ
応仁の乱前夜頃を描いていますので、人間関係を含めてややこしいこと
この上ない。。という状況です。(ま、正直いえば、生涯ずっと
境遇的にはややこしいのですが…。)
かつては、下克上の一代記として語られる物語でしたが、近年の研究で、
以下の事がわかってきています。
・元々は、室町幕府政所執事(今なら官房長官か財務大臣クラス)を世襲する、
・家柄的には、当時の上流階級に属し、幼いころから将軍近侍することも
でき、申次衆・奉公衆と幕府役職を歴任した。
・有名な話として、今川氏の家督争いを調停し、自分の姉(または妹)の子
を家督に据えた(後の今川氏親、今川義元の父)功績で駿河に所領を与えられた
ことが飛躍の足掛かりになった。とされているが、
これは、幕府の意向もあり、また、申次衆の権力を背景とし調停したもの
と解釈されている。(所領が与えられたのは事実)
・伊豆で独立勢力として旗揚げした時は、奉公衆(将軍直属の軍事部隊)として
堀越公方殲滅の軍事行動中であったらしい。
・生涯を通じて、「北条」の苗字を名乗った公式な記録は見当たらない。
(北条姓が見られ始めるのは、子の氏綱以降)
とま。昔に比べると格段に研究が進んできてはいますが、
まだまだ謎の多い、背景を読み解くのが厄介な時代ではあります。
白河小峰城(日本百名城第13番)
さて、四国・九州旅行から帰還後、夜勤を挟み、1日休みができたので、
9月3日にぷらっと近所の城巡りに行ってみたくなったので、
急遽、白河小峰城に行ってきました。
白河の地は、結城氏の支配に置かれた後、秀吉の奥州仕置により、蒲生・上杉と渡り、
江戸時代になって、丹羽長重が城郭の基本形が完成しました。
その後、榊原→本多(忠勝系)→奥平松平→越前松平→久松松平→阿部
と藩主家が転々と変わっていきますが、10万石から15万石程度の石高を誇り、
親藩・譜代の重鎮が封ぜられる、東北の玄関口たる要衝といえる場所でしょう。
当地からは、松平定信、阿部正外の2人の老中を輩出しています。
また、戊辰戦争時の「白河口の戦い」で激戦地ともなったところで。
駅から向かう地下道に城の石垣の組み方の図解があります。
実際の石垣はこんな感じです。
確かにはっきりとした湾曲が見られます。
意外と珍しいタイプかもしれません。
桜御門跡です。こちらの入り口は本丸御殿を経由して櫓に入っていきます。
こちらは天守閣ではなく、御三階櫓となります。武家諸法度の兼ね合いで、
天守の代用となります。
戊辰戦争時に打ち込まれた鉄砲玉の跡が至る所にあります。
石落としから
狭間からです(マニア)
本来の正門、前御門です。
本丸御殿跡ですが、あまり大きくはありません。
お城全体の石垣の雰囲気。
東北の玄関口の要衝にふさわしい偉容です。
3.11の東日本大震災の時に崩れた石垣がまだ復旧中でした。
内堀と紅葉が始まったモミジも。
白河の街中には、戊辰戦争時の犠牲者の方々の慰霊碑・供養塔などが、
東西両軍問わず、いたるところにあります。
家紋瓦は「星梅鉢」(久松松平氏)でした。
三方領地替えの対象となった3市が友好都市となっているようです。